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特別単独公演「CRYAMYとわたし」

日比谷野外大音楽堂

​-第二部-

一度ステージを去ったメンバーたちだったが、すぐにカワノが一人、ステージに戻ってアコギを抱える。「やるつもりなかったんだけど」と、優しいストロークで、先ほどとは打って変わって繊細な調子で鳴らされたのは、数年前にリリースした彼のソロ音源「冷たい哺乳瓶」(タイトルからして自分が生まれたことを嗤っているようだ)から「道化の歌」だった。

 

オリジナル版ではチープなピアノと跳ねたリズムで進む陽気な楽曲だが、アコースティックギター一本で鳴らされるそれはどこかより虚しい感じがする。歌を歌うシンガーのことを「踊らされて笑われる道化」に見立てて歌われる歌詞に、彼の生き様の一端を垣間見れる。「喜怒哀楽全部持ち寄って笑ってる君の顔が好き」という歌詞は、カワノを見る(時に消費する)我々からの言葉なのか、それとも、ステージ上から我々を見て思ったことをカワノが歌っているのか。そのどちらとも取れるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、カワノは実にサラリと歌い終わってしまった。まるでここまでの重苦しいムードを笑うように。

アコギを抱えながら、彼はメンバーやスタッフに向けてさらっと感謝の言葉を送った。自分のことを難しい人間、変な人間と自虐しながら、それについてきたことへの感謝。

 

その中で、カワノが何かを言い淀んで言葉を吐こうとしたタイミングだっただろうか、客席から一人の男性が

 

「CRYAMYやめんなよ!」

 

と怒鳴り声を上げた。


普段、CRYAMYのライブはメンバーへの声の類が飛ぶことはあまりない。それは下手にヤジを飛ばすとカワノが明らかに不機嫌になることもあったからだろうし(実際、結成当初客の頃、冷やかされた際にその場で感情的になって言い返してしまって場が白けるのが嫌だったから、と言って一時期はハウリングを出しながらMCしていた時期もあったそうだ)、コロナ禍明けからのここ一年は、彼らから肌で感じるほどの異常な緊張感をフロアに敷かれていたこともあるからだ。だから、この大声にはおそらく自分も含め多くの人が驚いただろうし、カワノも珍しく、少しだけ驚いた表情をしていた。


再び強く緊張した日比谷野音の客席からは、その後、声を発した彼に誰も続くことなく、一瞬だったが非常に長く感じる静寂があった。カワノは…それに対して呆れたように、でもそれに対して優しく答えるように(こういう声には彼はこれまでも絶対に答えてきたのだから、必ずそうだ!)「ふふっ」と、いつもの軽薄そうに作った声で笑った。そして「辛気クセェからバンドやるわ」と、また身に殺気を込めた。そして、戻ってきたメンバーに合図を飛ばして、観客のそれをより上回る緊張を轟音で押し返し、飲み混んでいく。

のちに、合計四部構成で組まれたことが判明した、限界も超越しようと挑んだライブの第二部。開幕は誰もが待ち望んだであろう、「テリトリアル」だった。シンプルな3コードをかきむしるだけの、一種ヤケクソの極みのようなコード進行と単純なビートを加速させる、彼らの初期のライブを支えてきた楽曲。エフェクトもクソもないほど、フレーズなどなくただただ潰れ切っただけを乱暴に放り出したようなフジタのファズギターがCRYAMYのサウンドを象徴することを決定づけた、ある意味では彼らの名刺がわりの一曲。弾き語りで和らげられた空気と日がどんどん沈んでいく幻想的な日比谷野音から、ここからさらに深く潜る彼らを凄まじい集中力の中に突き落とせるのは、この楽曲以外なかったのだと思う。

潰れんばかりの轟音を吐き出し切った彼らは、「鼻で笑うぜ」〜「ten」と、続けざまに「CRYAMY-red album-」を象徴する歪んだ速いドライブサウンドで鼓動を上げていく。個人的な感想だが、「世界/ WORLD」が「重さ・厚さ」のアルバムとすれば、前作の「CRYAMY-red album-」は「速さ・鋭さ」のアルバムだ。それは楽曲のテイストも、届けられる歌詞もそう表せる。


今、彼らは第二部を切って落とした瞬間においては、言葉や感情を叩きつける「重さ」ではなく、届く「速さ」を優先している。「俺たちの歌が届けば、後はなんでもどうにでもなる」というある種の無鉄砲さを纏った楽曲たちが、若き日に彼らを支えた初期の名曲たちが、当時コロナ禍で鳴らされる場所を奪われながらも諦めず育て続けた曲たちが、ここまでの旅路で摩耗し枯れて黄昏てしまった彼らを今一度無邪気な季節に引き戻したようだった。今回のライブで最もハイテンションで客をアジテートする動きを見せていたタカハシの姿を見ていてそう思った。

パンキッシュなターンを終えて、ここで最新の楽曲からロウな「ウソでも「ウン」て言いなよね」が選ばれる。高まった鼓動を、抑えることなくむしろそのまま歌に転化するように美しい旋律とサウンドで届けていく。以前、「自分の歌詞に他人のコーラスを入れられるのが本当に嫌い」と豪語していたカワノだが、この歌は丁寧に他のメンバーが「ここで」と、コーラスを重ねていく。それぞれが違う人生を歩んだ独立した人間で、だからこそ自分だけの歌詞世界に踏み込まれることを嫌ったカワノだが、この歌を歌いながら何を思ったんだろうか。


奇しくも、人の声を重ねることを選んだこの曲では、彼が関わったすべての人の生きる姿が描かれていて、そしてその歌は、この瞬間目の前にいる3000人の一人ひとりに手渡されていった。


そして、その大観衆を丸ごと抱きしめるように見えて、その実は一人一人に向き合って抱きしめるような、大きなスケールとごく個人的なつながりの双方を内包した名曲「完璧な国」。この曲も、段々とカワノは積極的に披露したがらなくなっていき、信頼のおけるオーディエンスのいる肝心な場面でのみの演奏だったが、この日にあつらえたかのように、日比谷の空に解禁された。沈んでいく太陽と、それと共に光を増していくステージ上の照明が眩しかったし、そこに浮かぶ4人が神々しい。もうここまできたら、彼らがここに集った人々を信じているように、この場にいる人間の誰もが4人のことをどこまでも信じてくれているはずだ。

いよいよ第二部のラストとなった「天国」を前に、カワノは、おそらくこの日を迎えるにあたって最も重要な意味を持つであろうことを語った。
ここでのの言葉は、どんな軋轢や逆境に立とうとも、何に道を塞がれようとも諦めなかった彼ら4人のバンドライフを、そして、その末にたどり着いた今日の光景を証明するような力強い前説だった。

ついにここまで活動方針やバンドのスタンスが一貫してぶれることなくここまで走り切ったCRYAMYだが、それは楽曲の大きなテーマの絶対的な一貫性にも言えることだ。


CRYAMYは結成してから今まで、一貫して人間の「命」や「生きること」を、非常に深刻で切実な目線と切り出し方で歌ってきたバンドだった。それは生々しく、善悪美醜がどこまでも平等で、徹底して写実的にそれを描いてきたバンドだった。結成当初は、それを時に周辺のバンドマンやライブハウスの人間から「大袈裟なことを言うな」と冷笑され、ロック・ライブハウス好きと自称するリスナーからも「メンヘラ向けのロック」と揶揄されたこともあって、怒り、傷ついてきたことが幾度もあると彼らは語っていた。

 

そうやって自分の表現をいとも容易く乱暴に謗られたり、望まない方向に流されかけたりするたびに、彼らはそれを拒絶して、パフォーマンスや次に出す楽曲で、あるいは、それを全て含んだ自分の表現をもってして、自分の表現を守り続けてきた。そしてそれは、CRYAMYを愛する誰かのことを「正しい」と肯定し、その人の命とか生活を守る戦いでもあった。


時が経って、今、社会は揺らぎ人の命が軽んじられる時代となってしまった。そして、いつしか彼らを嗤っていたような軽薄な連中が、手のひらを返して日和見的に口先で「命」や「生きること」を、誰かの賛同を安易に得るために美辞麗句的に並べている。


ライブハウスには、内包する意志やメッセージなどないのに口先だけで彼らを真似た(パクった)MCをする同世代くらいのバンドも雨後の筍のようにどんどん出てきていると感じる。これまでも、今も、どこかで軽んじられてきた「言葉」や「命」は、今度はそうして別の方向に軽んじられているのだろう。そこに、筆者は、怒りはあるが、否定もまたしない。ライブハウスに足を運ぶ人の中にはそれはそれで感動したり、それに酔って楽しめる人も多くいるだろう。なんなら、現代のアーティストはわざわざ身を削ってそれをライブの場でリアルな肉声で発せずとも、手触り良くさらっとそういうことをSNSで手頃に言葉を吐いて簡単に承認を得て満足してしまうこともできるし、リスナーもファッション的に流れてくるそれに躊躇がない人間も多いと思う。

しかし、彼らはそうではない。時代がどんな姿であろうが、混沌を迎える令和のそれ以前から、最初から最後まで、覚悟と矜持を持って徹底的に命に向き合い、伝えてきた。そしてあくまで現場で、ライブに足を運んでいる、目の前にいる深刻な思いを抱える人間と、何よりそれに向き合う正しくあろうとする自分を信じて続けてきた数少ないバンドの一つだ。そして、その想いの伝え方、という一点においては、何者も寄せ付けないほど深く、重く、そして壮絶に、犠牲を払って身を焦がしてきた男たちだ。誰が彼らに並ぶだろうか。そんなバンドは絶対に存在しない。そして、それだけを信じ、求めて集う人間がこの日はこんなにも日比谷野音に駆けつけたのだ。

そして、その、自他に捧げた深い信頼と悲壮なまでの信仰が、身を結んで実現したこの日のステージで、カワノは言い切ってみせた。

「自分を信じること」

「天国」の、フジタの繊細なカッティングから一転して牙を剥くギターのダイナミズムを最大限に活かした轟音の濁流を、タカハシとオオモリのヘビーなリズムが泳ぐ。そこで歌われたカワノの最高傑作とも言えるであろう素晴らしいメロディで、彼らは、最後の一音がちぎれ飛ぶまで、目の前の君を、自分を信じ切ってみせたのだろう。


アウトロでブチギレたフジタのファズの壁を、それすら圧倒せんとするテンションでブチギレた喉でシャウトし叩くカワノの絶叫で、「天国」は終わっていった。

気がつけば日は落ち、闇が彼らを迎えていた。そして、刻一刻と終わりが近づくことを観客はここで少しずつ実感していったように思う。

頭上には、綺麗な月が雲一つない空に浮かんでいた。この星すら彼らを祝福するかのように。


もう既に満身創痍の彼らだが、そのゴールデンタイムは、ここから始まったし、ここに至るための助走でもあった。

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